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モチモチの木

斎藤 隆介

○教材について

学習者に学習方法を選択させる単元構成になっている。四年生のごんぎつねと同様の単元構成になっているが、この単元構成が三年生にどこまでできるか不安が残る。

加えて、モチモチの木という教材はじっくりと読み込みたい教材でもあるので浅い理解のままでひろげる展開を取ることで学習効果が得られるのかどうか、かなり念入りに教師のサポートが必要になる。

○音読する以外に広げる学習があるのか

三年生ということもあって、教科書に提示されている学習方法は一般的な読解の授業の中で行うことと随分重なっている。音読にしてもそうだし発表や話し合いなどもそうである。そういう意味では、普通の授業の中でやっている学習方法を自覚化するねらいのある単元と考えてもよい。

この学年はある意味で音読の完成期であるから、書かれている内容を意識して効果的に読むこと以上に、語りの文体になっているので読み聞かせる主体となって誰かにこの話を語って聞かせるような場面を設定し音読の広げ学習を構想したい。その前提としてある程度の読解学習を位置づけなければならないがその点は後の項に譲る。

さて問題なのは、他に広げる学習があるかということだ。教材という観点からいえば、挿し絵の版画が効果的なのでセットとして捉えさせ、滝平さんの他の作品を集めさせたり、版画の良さなどをまとめさせたりする展開もある。しかし教材から離れていく方向性が強いのでどのタイミングでどういうふうに位置づけるかが難しい。

また、教材の背景などを調べ学習で広げる方法もあるのだが、この教材では今ひとつ広がる背景が見出せない、ということで作品から離れる方向性での広げ学習も作品の理解を増幅させる調べ学習もやや配置しにくい傾向がある。

○豆太の変容をどう見るか

作品を通して豆太は成長したかどうか、と言われると成長したと考える。しかし最後の記述にもあるように、依然として夜はじい様としょんべんに行く。これは変わっていないのだとすると豆太の変容をどう考えるのかということが学習者にはわかりづらいので、ここが最後の読解のポイントとなる。

前半の対立軸として


きもすけ(父・じさま)⇔ おくびょう(豆太)


が構図としてあるわけだが、最後のじさまのことばにもあるように弱虫でもやさしければ・・・という発言に見られるように、豆太の人物像は勇気ある子どもと位置づけられる。この価値観のずらしがまず前提となる。  このずらしをどう読むかという問題になるのだが、これを豆太の成長と読むか、本質的な資質を発見されたと読むか。三年生という学齢からも、成長と読んでおきたい。さらにじさまにそう言われた豆太の心情を押さえさせることで豆太の成長として捉えさせる展開ができるのではないか。

○じさまの人物像

豆太は両親がいない。特に父親は死んでいる。故にじさまと一緒なのだが、このじさまの人物像は読解によって把握可能なくらいに書き込まれている。モチモチの木に灯がともる現象に対して呼んできた医者は非常に冷静に見て、豆太に話しかける。これに対してじさまはあくまで山の神様の祭りを見たと言い、豆太の勇気をほめたたえる。つまり年寄りの医師とじさまは等しく老人の人物形象を持ち、幼い豆太と対立的な存在なのであるが、さらに医師とじさまにも人物形象の対比点が見出される。その点を文章に即して対比的にまとめていくことで、じさまの人物像が把握できる仕掛けになっている。

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モチモチの木

斎藤 隆介

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モチモチの木の授業

実践国語教師の会

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