握手

井上 ひさし

教材について

 回想と現実の行き来が二重の時間軸を構成しているので、学習者にはやや難しい作品だと思う。人物像の把握なども、例えばルロイ神父も修道院の園長として仕事をしていた過去の姿と、癌を患ってむかしの子どもたちに会いに回る現在の姿とが二重に描かれている。 視点人物は語り手の私であるため、ルロイ神父の内面も彼の推論に支えられて描かれている。やはり中学三年生にもなるとこのくらい複雑な構成の作品を丁寧に読み解いていく学習が必要になってくるのだろう。 描き出されている背景は微妙に戦争を扱っているが、従来の教材とは異なり日本人の視点から描かれたものではなく、強制労働を強いられた外国人であるルロイ神父の心情を推論する日本人の立場から描かれている。このあたりの視点の複雑さにも目を向けて学習を進めてきたい。

二重性を貫くもの

 回想と現実の二重性の構造故に複雑さを持つこの作品において、そういった時間を超えて変わらぬものがある。それがルロイ神父と語り手の関係である。握手を時間の流れを象徴するものだと考えると(強烈な握手がそうではなく語り手が強く振るところ等)握手をすることによって得られる安心感や穏やかさといった内面的なものは変わらないものの象徴でもある。(少なくとも語り手の中での握手にはそういった意味合いが強い)
 それ以上に二人の関係は時を越えて変わらないものの一つと考えられる。それは二人だけではなく他の孤児たちとルロイの関係などもサブエピソードとして添えられているので同様なのだと考える。  いずれにせよ、時間を隔てた中で展開していく二人の対話を中心とした物語の筋は学習者に「変わってしまったもの」に目を向けさせる。それゆえに敢えて時間の隔たりの中で変わらないものを見つけだし両者を結びつけていくことが学習の焦点になる。

語り手にとってのルロイ神父とは

 先にも述べたようにこの小説は語り手の視点から描き出されているので、ルロイの内面などは語り手の思い入れなどに大きく影響を受けて推論されたものである。現実味を帯びてくるのは、回想の中から引き出されてくるルロイの習慣や癖などを根拠にしているからであって、そこにもまた語り手の中でのルロイの存在を表現するに過ぎない。 しかし、そういった一人称の語りの中で、もう一つ話に現実味を帯びさせているのは、この話がルロイと語り手の対話によって展開していることにもある。読解の中で両者のやりとりの重要と思われる箇所に焦点を絞って、二人の関係をその都度ごとに考えさせておきたい。 最終的には大きな問いを投げて、個々に押さえた両者の関係をインテグレートしていかなければならないのだが、そういった問いの一つとして、題に挙げた問いを持ってくるだろうと思う。
 父や親と行った意見も出てくるのだろうが、そういった存在とも違うものとして考えさせることができるといい。私などは個人的な考えでは師という存在かなあと思っているが、学習者には経験が乏しい分難しい問いになるかもしれない。私が目を向けるのは、特に二つの教訓をたれているところだ。「日本人を代表してものをいうのは傲慢だ」とか「カナダ人とかアメリカ人などというものはない」というところ、「困難は分割せよ」等という所などから、こういったことばを自分に投げてくれる存在とは一体どのような存在で、自分は今までそんな人とめぐりあって来たのだろうかと考え込んだりもする。  文章の中で学習者自身が根拠とした箇所を明示しながら二人の関係をどのように捉えたのかと言うことを文章にさせるには上記の課題が適当ではないかと考えている。

精神的自立

 語り手が作品の中で述べているようにこの逢瀬は別れの儀式であったのかもしれない。それは同時に語り手が精神的に自立していく最初の一歩であったとも見て取れる。最後の場面で両手の人差し指を交叉させ、せわしく打ち付けるのはなぜかという問いは学習者に投げておきたい問いである。上手く見送れなかったとかもっともらしい別れか多賀できたのではないかという後悔の念として捉える学習者が多いが、やはり題名の握手にも現れているように、二人のつながりが焦点化されていると考えるならば、ルロイの内面に入りこもうとする語り手が結局入りきれないままで投げ出されてしまうその焦りにも似た困惑の念なのではないかと考える。

 後半で語り手が「楽しいときとかなしいとき」について問いを投げかけているがそのあたりに目を向けながら、最後の部分に結びつけていく展開が取れればいいと思う。

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ナイン

井上 ひさし

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父と暮らせば

井上 ひさし

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四十一番の少年

井上 ひさし