カレーライス

重松 清

○教材について

 重松清さんの作品は、最近の教科書編集では売れ筋である。きよしこ等の長い作品もあるが、一貫して言葉にできない事への思いや言葉にすることの勇気などを少年期から青年期への過渡期に当たる主人公に直面させている。

この教材もそういう意味では、父と息子の関係の推移が、言葉にできないまま新しい関係へと推移していく様子がよく描かれている。六年生の教材だけあって、視点を考慮した読みが教材の理解には重要となる。

  ぼくの視点から描かれた生活世界や彼自身の内面に触れさせる中で、言葉にできない事へのもどかしさや切なさなどが理解でき、関係に目を向けた読みも完成期を迎えさせたい。

○ぼくの視点から語られる話として

 カレーライスは、一貫してぼくの視点から描かれている。このことに目を向けさせて教材を読み込ませたい。視点を意識させるために、「ぼく」の日記を場面ごとに付けさせることで自分が学習の中で至った読みや理解を言葉にさせるふり返りを継続して行ってもらったクラスでは、やはり、ブラインドサイドとして父親から見たぼくの姿と対比的に読む目を生み出しながら後半へと展開することができた。  後半では、例えば、「なぜぼくは父のためにカレーライスを作ったのか」という因果関係から読み解く発問を学習の軸としながら、その問に対して、「ぼくのことを理解してもらいたい」という系統の反応が返ってくる。この反応は、「ぼくがもう中辛のカレーライスを食べていることを知って欲しいから」という関連した反応も生みだしてくる。しかしこういった反応は教材本文を読み込んでいないために起きる反応で、その多くは視点を意識した読みができていない場合が多い。  念のため中辛関係の記述をきちんと整理すると、


父親の視点から見れば・・・ぼくは甘口のカレーを食べている

ぼくの視点から見れば・・・もうすでに中辛のカレーを食べている。


わけであって、両者の視点のズレがここで改めて顕在化する。  相互の視点のズレは、「半信半疑」や「お父さんってなんにも分かってないんだから」という表現で間接的にも表現されている。  だからあえて、ぼくがカレーを作ったのはと問うのは発問自体が浅いのかもしれない。カレーに対する認識で顕在化した父の不理解を乗り越えて、それでも作るのはなぜか、という問に発展するときに、何度もうなずくうれしそうな父にシンクロするぼくの姿を理解することができるのだ。

○結局の所、関係に目を向けると

 授業の山場は、やはり最後の場面にある。カレーライスの「ほんのり甘い味の意味」から切り込んでいくことも考えられるし、やや教材から離れて二人の関係はどうなったのかということで切り込んでいくことも考えられる。どちらで切り込んでいっても構わないと思うのだが、避けては通れないのが、両者の関係が結局どのようになったのかという点である。

 けんかしていた父と息子が仲直りする話ではない。言葉で何もかもやりとりできた、これまでの父子関係が、言葉でやりとりできなくても何となく和解できる関係にスライドしていく話なのだ。言葉にしないのだから、ある種父と息子の距離は開き、こういったいさかいを繰り返しながら、少しずつわだかまりを抱え込んでいき、それでもなお和解し続けながらお互いの関係を保っていくような時期に入っていくのである。それが切なくかなしいと感じるのは男の子だけかもしれないと思うとこの教材を女の子はどのように理解するのだろうかと不安になったりもする。

○言葉にしたくてもできない思い

 冒頭の「ごめんなさい」と言わない、というぼくの決断は、父親の態度の軟化と時間の経過によって少しずつ、「ごめんなさい」と言いたくても言えないもどかしさへと推移していく。前半部分の読みとりの焦点はこのあたりに定めながら後半に入りたい。この教材は文章自体が比較的長いので、前半の展開は焦点を絞ってプリント学習を仕掛け、読み取ったことを整理しながら後半の深く考える学習の下準備をさせておく。  こういった展開の場合、板書だけでは補いきれないので、特に前半部分で重要な記述などを漏らさないように、記入して完成するタイプのプリントを用意し、最後の学習の際にそのプリントを資料として目で見ながら深く考えられるように配慮する。 いずれにせよ、こういった下準備をしておくと、結局、ぼくは「ごめんなさい」とは言っていないことに気が付かせられ、カレーライスを一緒に作って仲直りしたというような浅い読みから回避することもできる。

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カレーライス

重松 清

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小学五年生

重松 清

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ビタミンF

重松 清