やまなし
宮澤 賢治
○教材について
多くの実践が重ねられた来た定番教材だが、同時に非常に難解な教材でもある。クラムボンとは何か?二枚の幻灯の意味とは?など学習者以上に教師にも理解できないポイントが随所にあり、多くの教師がこの教材の授業に泣いてきた歴史もある。
○生命のやりとり
五月の場面と12月の場面を対比させる授業は数多く為されてきたが、その対比の観点はカワセミと魚の命のやりとりとやまなしの自己犠牲的な命のあり方の対比であった。 奪うことと与えることの違いとして抽象的に位置づけられたり、動と静で位置づけられたりしたが、やはりこの教材の内容や宮沢賢治の考え方を鑑みると、命のやりとりを軸にした教材理解の学習を構想する必要がある。カニの子どもたちや親ガニとの対話は、こうした命のやりとりを傍観する立場から為されているために、二つの命のやりとりを意味づける際には目を向けさせたいポイントとなるだろう。
問題なのは、12月の場面でやまなしが落ちてかにたちに恵みを与えることを命のやりとりとして捉えさせられるかどうかという点にある。様々な学習方法があるとは思うのだが、私は、教科書の後半に置かれている「海の命」との比べ読みを仕掛けていく。老漁師の死が若者にもたらしたものはやまなしがカニにもたらしたものに似ている。しかも老漁師のもたらしたものは実態のないものであるが故にやまなしを起点にして、海の命の学習が深まりを見せる可能性がある。
○クラムボンやイサドについて
賢治独自の表現に対して学習者は、その意味を知りたがる。クラムボンは何かという問はおそらく賢治以外には明確に答えられる人が居ない。泡だという人もいれば、魚だという人もいるし、もっと抽象的なものだという人もいるが結局答えが見えない。
これはイサドについても言えることだが、イサドの方が推測しやすいかもしれない。いずれにせよ、この問にはどうやったって触れざるを得ないので困ってしまう。 私がよく使う問は、クラムボンは5月の場面にしか出てこないのはなぜかという問だが、12月に出てこないことがクラムボンの実体を確定するところまでは至らないのが事実だ。
結局どこでとめておくかということになるのだが、それについては様々な先行実践などを当たってもらえるといい。子ガニの会話にしか出てこないので、子ども特有の言い換え表現なのではないかということも考えられるのだが、こう考えても学習者といけるところは限られているように思う。擬音語や擬態語と結びつけて賢治作品の読書指導へ行き、他の作品の中に出てくるこういった表現を集めさせることもできるが、直接的にクラムボンを確定するには至らない。
○賢治の生涯と結んで
光村版では、畑山さんの「イーハトーブの夢」と連続させているが、これは詳細な読解を避けて言語活動を導くための単元構成だと思う。イーハトーブの夢では、賢治の理想が説明されている。この賢治の理想と結びつけることでやまなしの理解が深まることはいうまでもないが、この文章ではもう一つ賢治作品を貫いている賢治の法華教信仰が扱われていないため、(当然それは教科書教材では扱えない内容になるのだが)これを学習者に宗教色を抜いて与えることができるかどうかが考え所だし、与えてよいかどうかもすでに問題である。しかし個人的な考えでは、やまなしという作品が命のやりとりを扱っている以上、何らかの形で賢治の信仰に関する情報を入れたい。
宮澤 賢治
西郷 武彦